Feb 19, 2010
使い方は様々なコピー用紙
コピー用紙を印刷して便箋にあり、折り紙などもある。子供たちは、ぬりえ無料サイトで何を印刷できない裏にしたり、お絵かきしたり、文字を印刷する以外に、コピー用紙は、さまざまな用途がある。服を作る時、型紙の線をなぞる場合にも丁度いい透明の状態で用紙を一緒に利用することができます。下記のものをドトスヌンエちょうどいい厚さのものが多い。料理レシピをPCで検索して、作ってみたいレシピが発見されると、コピー用紙に印刷します。そのままパソコンを台所にいてみることも良いかもしれないが、キッチンなので、PCに水がかかることを恐れてしまいます。コピー用紙に印刷すると、水がかかっても破損したり、インクがにじむ程度かかりますので、それ以上の使用にも便利です。
東日本大震災の津波で役場庁舎が全壊した岩手県大槌町の仮庁舎が完成し25日、開庁式があった。本格的な業務も始まり、訪れた町民が窓口で申請手続きなどをしていた。
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町は震災後、役場機能を高台の町中央公民館に移すとともに、町立大槌小学校グラウンドにプレハブ7棟の仮庁舎の建設を進めていた。
開庁式には職員ら約100人が出席。黙とうの後、亡くなった加藤宏暉(こうき)町長(当時69歳)に代わって、町長職務代理者の東梅(とうばい)政昭副町長が「この仮庁舎を拠点とし、将来的な復興に向けて頑張りたい」とあいさつした。【木村文彦】
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東日本大震災で被災し、宮城県南三陸町の県志津川自然の家に避難している成沢公子さん(34)は、行方不明の自動車販売店勤務の男性(52)と再会する日を待ち続けている。離婚歴がある二人。震災の2日前にプロポーズされ、新たな人生を歩もうと誓ったばかりだった。成沢さんは3人の子供を抱えるが、病院事務の仕事も失った。「自分の半分がなくなってしまった感じ」。心の空洞が広がるのを止められない。【垂水友里香】
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成沢さんは3月9日、自宅で男性と会っていた。以前からの知り合いで、離婚後に付き合い始めて2年。お互い口に出さなくても次のステップを意識していた。この日、男性はいつもと変わらなかったが、帰ろうとした時、玄関で体を引き寄せられた。耳元で「老後は一緒にいようね。おれが守るから」と告げられた。成沢さんの答えは「またそんな期待させるようなこと言って」。照れ隠しで真剣に答えなかった。顔を見て話した最後の会話だった。
震災から約1カ月たっても成沢さんの自問自答は続く。「あの日『はい』と言えなかった。言っていたら何か変わっていたかな」
つらくなると携帯電話のメール画面に目がいく。地震直後の11日午後2時50分の受信メールは「地震大丈夫?」と成沢さんを心配する内容だった。「大丈夫じゃない。怖い」と返信すると、自宅にいる両親の様子を見てくると伝えてきた。その後も「大津波警報が出たから、海に近づかないで」と送信してきた。午後3時57分に「両親は大丈夫?」と尋ねて以来、返信はない。
助かった男性の両親によると、男性は自宅に立ち寄った後、会社に戻ったという。今月中旬、男性の乗用車が会社から約100メートル離れた川の縁でつぶれた状態で見つかった。行方不明者届を出したが手掛かりはない。
成沢さんは「うそ。絶対(私を)置いていくはずがない」と自分に言い聞かせる。両親に男性の存在を打ち明け、互いの子供たちと一緒に暮らそうと決断した。その直後だけに「自分の中の半分がなくなってしまった感覚」が膨らんでいく。
病院も被災し、失業した。「子供がいるからしっかりしなきゃ」と奮い立たせても落ち込むことを繰り返す。気持ちが沈むと、男性が「おれが守る」と言った声がよみがえる。そして少しだけ顔を上げられる。「ある日『連絡取れなくてごめんね』と会いに来るって信じられるの」
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「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。
【被災地で尋ねました】いま、あなたの宝物は何ですか?
◇3月11日
卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。
◇3月18日
津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。
◇3月23日
卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。
◇3月25日
親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。
ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。
◇3月26〜27日
見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。
◇3月28日
きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。
◇4月7日
きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。
* *
箱石君は25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。日記は、大沢小の子供たちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。「何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております」(2人の子を持つ東京都北区の女性)とのメールが届くなど大きな反響を呼んだ。「大沢からの報告」は同紙で随時掲載され、次回は5月11日の予定。
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